私は障がい者だ。しかも一見してそれとわかるので、たまにこちらが何も言っていないのに「大丈夫?」とか「大変ね」とか声をかけられることがある。
そういう時にはこちらも失礼にならないように、少し笑みを浮かべて「ええ、まあ。そうですね。」とごまかすことにしている。
そしてなるべく目を合わせないように相手の顔の鼻のあたりを見ながら、そうっと視線をそらす。
その話にのってしまうと必ず最後に出てくるのが
「大丈夫よ。悩んでいるのはあなただけではないのよ。私もね…」とか「私の友人にねー」ということになる。そしてその後、その病気を克服するのにどんなに努力をしたかという話を延々と聞かされるはめになったりするからだ。
その方は多分私を慰めているつもりなのかもしれない。もしかすると話をしたいだけかもしれない。善意で言ってくれているのかもしれない。けして悪い方ではないと思う。
いや、むしろ良い方である場合が多い。
努力の話の後はだいたいアドバイスが入る。
「だから、あなたもね、これをしたらいいと思うわ。」
「おすすめは○○なの。」
だけど、私はその話を聞くのはつらいのだ。なぜなら、病気の症状は十人十色。人によって痛みの感じ方も違うし、不自由、つらさの思い方も違う。
なので、私は声を大にして言いたい!!
悩んでいるのはあなた一人ではない。と言われるのが嫌いだ。
私の悩みは私の悩みであり、あなたの悩みではないのだ。よって、あなたが私の悩みをわかることもないだろうし、私があなたの悩みをわかることもないのだ。
ひと昔前、ヒットしたドラマ アリーマイラブにこんなセリフがあった。
「あなたの悩みってなんでそんなにいつも大きいの?」とジョージアに聞かれた時、アリーの放った一言。
「それは私の悩みだからよ!」
その頃私はまだ健常者であったが、そのセリフに多いに共感した記憶がある。
悩みは人それぞれ違い、分かりあうことはないと思う。分かりあったと思ってもそれは幻想に近い。
こんな話をするのも、実は先日病院で隣の席の方に話しかけられた。(マスクも距離感もしっかり対策している品の良いご婦人であった)。
病院の待合室だと逃げ場がない。
「はい。」「まあ。」「ええ。」と話しを聞いていたが、最終的にはどこかの宗教の勧誘のようであった。
身体や精神の悩みで宗教を頼ることは悪いことだとは思わない。それこそ人それぞれで、それで救われるならそれにこしたことはない。
が、、私はどうやらそういう人間でもないようだ。
私の悩みは私のもの。自分であたため、あやし、癒していくしかないのだ。
等と書いていても、どうしても浄化できなず、ついついパートナーにあたってしまうこともある。
「何イライラして怒ってるんだよ。つらいのはお前ひとりじゃないんだぞ!」
と怒られた。
あーあ そうだ 人のつらさはわからない。反省…
今夜のごはん:チキンソテー
カブとちくわの浅漬け
アメリカンチェリー♪
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