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2021年6月21日月曜日

LGBRQ Pride 月間 Part3 Diversity Equity & Inclusion その難しさ 

六月はPride月間である。最近LGBTQのことについて考える機会が多く与えられている。知らないことを知るのは、良いことで、そのチャンスが多いのはありがたいことだと思っている。

今までLGBTはなんとなく知ってはいたが、Qとは何ぞや?と思い調べてみた。

詳しく書いてある”自分らしく生きる”というサイトがコラムがあったので紹介しておこうと思う。

以下、そのサイトからの引用。

LGBTQの「Q」にあたるセクシュアリティが、「クエスチョニング(Questioning)」。このクエスチョニングは、「性自認と性的指向が決まっていないセクシュアリティ」となります。 

自分は男性なのか女性なのか決めかねている。また、それ以外の性なのか、男性と女性の中間なのか…。 

こういった性自認が決まっていない状態の方をいいます。 

また、どんな性別の方を好きになるのか…といった要素である性的指向についても、どんな性を好きになるべきか、むしろ好きにならないのか…など、定まっていない状態の方でもあります。 

また、「クエスチョニング」の特徴としては、迷っているという方ではなく、「意図的に決めていない」という方も入っているところに注意が必要になります。 

参考:https://jibun-rashiku.jp/column/column-3215 

世の中にはいろいろが方がいて、いろいろな悩みを抱ええているのだなと思う。

ちなみにLGBTを紹介しておくと下記となる。

L:レズビアン(Lesbian) 自身の自覚の性:女性 恋愛対象:女性

G:ゲイ(Gay)自身の自覚の性:男性 恋愛対象:男性

B:バイセクシャル(Bysexcal) 自身の自覚の性:自身の性 恋愛対象:両方の性

T:トランスジェンダー(Transgender) 自身の動物学的な性と心の性が異なる。


私自身は、母が英語の先生であったためか分からないが、幼い頃からいろいろな国の方と知り合う機会に恵まれた。遠い昔ではあるが多感なティーンの頃、外国で過ごしたこともある。なので、そういった多様性を受け入れることは私にとっては幸運なことに自然なことだ。

幼い頃、友人の誕生日パーティーに誘われて、お家へおじゃました時、その家のおじい様から「ごめん。俺は日本人はきらいだ。」(Sorry. I don’t like Jap) と言われ帰ってしまわれたことがある。

”Jap” 日本人に対するは強い侮辱語である。多感な私は非常に傷つき、日本人なだけでなぜ?と思ったが、今なら分かる。おじい様は友人を真珠湾で亡くされたのだ。(後で、友人が教えてくれた。ごめなさい(Sorry ではなく Apologize )の言葉を添えて)。

「出ていけ。」とは言わずご自身が立ち去られた。それだけでも彼の目いっぱいの優しさなのである。

彼にしてみれば、宣戦布告もせずに、平和だったハワイのオアフ島にあるアメリカの基地を襲い、友人を殺した今でも敵国の人間なのだ。
調べてみると真珠湾攻撃は、日本時間にして1942年(昭和16年)12月8日 ハワイ時間 12月7日の出来事だった。

ほんの80年前の出来事である。そして当時はほんの40年ほどまえの出来事であった。

バックグラウンドた少し違うだけで、自分と違うもの、違う考え方を受け入れるのは非常に困難なことなのだ。

私にとってはLGBTQを受け入れるのはそんなに難しいことではないと思う。例えば、長い友人が自分はLまたはGであると言い出しても以外とは思うが、そんなに驚きはしない。

(苦しかっただろうな。もっと早く言ってくれればよかったのに。)と思うと思う。

いろんな人がいるから世の中は楽しいと思う。みなつき自身はGenderlessでいたいと思う。なるべく自分の性に固執せずに、自由でいたいと思う。というか憧れがある。

まだまだ固執し呪縛から逃れられないからである。

そんな話をしていたら、ある友人がこんなことを言い出した。

「私、ダメなの。最近会社でも多様性とかLGBTQの話題が多くあがるの。でもダメなの。すごく悪いとは思うけど、反射的に "気持ち悪い”と思ってしまうの。生理的に受け付けないって言うか。そして、それにすごく罪悪感を覚えるの。」

私が「それだって「多様性」だよ。無理なものを頑張って受け入れる必要はないし、罪悪感を感じる必要もないと思う。」と言うと。

友人は「私もそう思いたい。でも、今の状況がそれを”カミングアウト”することを”許さない”のよ!」と寂しそうだった。

ダイバーシティ(多様性)イクイテイ(公平)インクルージョン(包括)
Diversity Equity & Inclusion 

斯くも難しいものなのだ。と考えさせらせる一幕である。


本日の夕食:西友のお惣菜のアジフライ&蟹クリームコロッケ(これが安くて美味なのだ)

電子レンジなくて、魚焼きのグリルとかトースターとかで焼き直すと衣がパリっとして美味しいですよ。お勧めです!

海鮮丼(これも西友の刺身のっけただけ)
キャベツ千切って塩&胡麻脂
トマトのサラダ(切って並べただけ)
デザート 本日は赤ワインでアメリカンチェリーをつけて香りを楽しんでみました。
白ワインとはまた違った風味で楽しい。






2021年6月18日金曜日

鬱 助かりたい気持ちと努力がなければ助けられない

キャベツの千切りはいい。イラつく心を静め、頭の中を空白にして整理してくれる。
千切りしながら数をかぞえる。それだけで雑念を身体から追い出すことが可能だ。

なので、イライラしたり怒りでどうしょうもないときはお勧めする。

さて、本題に戻そう。

まず、イライラの発端である。私の知人に精神障害を患う方がいる。個人情報になるので詳しいことは書かないが、本人は曰く躁うつ病で、うつ期になると世界中の人が自分のことを否定してダメなやつだ思っていると、思い込むとのことだ。

私は知人の躁期をよく知らない。連絡があまりない。私を必要としていないであろう。

ただ、なんだか突然資格をとる勉強を始めたとか、ギターを習いだした等、風の噂で知ることもある。これが恐らく躁期なのだろう。だいたい途中でおっぽり出すところを見ると…

で、鬱期である。

「もう疲れた。消えてしまいたい。」と言う。そんなことを言われても私には返す言葉は持ち合わせてないのでしばらく黙って話を聞く。長いと2時間でも3時間でも同じ話を繰り替えす。だいたい聞いていられるのは最初の2-30分だ。

聞いていられなくなると、私は言う。「このまま話をしていていいから、私は違うことをしてもいいかな?」と携帯の音声をオンにしたまま、ヨガをやったり瞑想をしたりしてみる。

「命の電話」に電話をするように勧めたこともある。私は専門家でも医者でもないからだ。

だけど、つながらないらしい。それにつながってもろくな事は言われないと言う。嘘だ。
少なくとも私よりはいろいろな訓練を受けた方が対応してくれるので、アドバイス等も適格なはずだ。

多分、知人にとってはアドバイスは余計なことなのだ。

ただ話を聞いてほしいだけなのだ。「それってうざいよ。」私ははっきりと伝える。「そうだよね。私 うざいよね? きらいになった?」と聞く。

「いや、きらいにはなってない。」これは本当の気持ちだ。私はなぜか知人をきらいになれない。自分の好きなように生きて勝手に躁になり勝手に鬱になる。そして話を聞いてくれる人が何名かいるらしい。

うらやましいと思う。私がそうなったら私は誰に話を聞いてもらえるのだろう? 
頼る先は命の電話か、心療内科か…

それに、きらいなったら、知人は本当に ”消えてしまう” だろう。

私の前からか…現からか…それともこの世からか…それは分からないが。

それは困る。

知人からの鬱の知らせは、私をメランコリックさせる。鬱は伝染するのだろうか?

気が立つ。勝手に知らせてきて、勝手に連絡を絶ってしまう。


私だって身体が痛いときには、洋服を脱ぐようにこの身体を脱げたらと思うことがある。

でも ”消えてしまいたい” ということはない。ないと思う…

私の中に ”黒い” 部分があるのは事実だ。そしてそれを掘り起こす。どろどろした胸間にぶくぶくとおぼれていく。ああ 私はまた夢を見ているのだと思う。

漆黒の沼にはまり、もがけばもがくほど靭カズラに落ちた虫のようにずるずると中心へ落ちていく。溶けていく。すべて溶け切ったところで目が覚めてくれればいいのだが… 覚醒できなかければどうなってしまうのか…そのまま私も沼の一部なってしまうのだろうか。

ふと、怖くなった。そんな知人は本当にいるのだろうか?

いや、いる。それが現実だ。そしてそんな気にさせるのは私の脳と心の問題なのだ。

だいたい知人には、”助かりたいという気持ち” と ”努力” がない。それでは、いかにこちらが助けようとしても助からない。本人を助けられるのは本人だけで、周りは受け止めるか受け流すか、アドバイスをするかしできないのだ。

で、最初のキャベツの千切りの話に戻る。我を忘れて千切りをして、美味しく食べる。
ビタミンも食物繊維もとれるし鬱もきっと治るだろう。

うん??


本日の夕食: さばの塩焼き 


にんじんシリシリ コールスロー 玉子スープ


2021年6月17日木曜日

LGBTQ Pride 月間 Part2 DE&I (Diversity Equity &Inclusion)  

 金魚の絵がかきたい。というか絵がかけたらどんなにいいだろう。と思う。

私は文章を書くのはそんなに難しくはないが(上手いか下手かは別として)絵をかくのが非常に苦手だ。描こうとしてもどうしても変になる。平行感覚がない。奥行が分からない。描こうとするものが、目や頭になるものと全然違う。ので、児童図書館の絵は、うちの相方が描いたものだ。(でも、プロフィールの自画像は自分で描いてみた)。

なぜ冒頭でそう思ったかというと、わが社のDE&Iの活動の一環でPride月間を祝うために、社内で「Tiny Tales」 コンテストを開催している。テーマは「Love is Love」。物語、詩、ビデオ等のいずれも短いストーリーを募集してしているのだ。

これは出品しない手はない。優勝者には賞品がもらえる上に、人目に作品が触れるチャンスでもある。今更、有名な作家になりたいという野望はないが、どこかで一度だけでも絵本等を出版したいというゆめは一応持っている。150単語以内とすごく短いので、今回は詩を選んだ。

本当はこれを映像にしてビデオ部門にも応募したいのだ。頭の中ではすでに構想は出来上がっている。しっかりしたものが目の前に出来ているのに、それがどうしても絵になって出てこない。私の絵を描く部分の脳神経の伝達は右手には伝わらないらしい。

こういった、神経学的多様性のことを 最近ではNurodiversity(脳の多様性)というらしいが、元々は下記の考え方から来ているらしい

ニューロ・ダイバーシティ(英: neurodiversity)は、教育や障害に対するアプローチであり、様々な神経疾患は普通のヒトゲノムの差異の結果として現れるのだ、ということを提唱する[1]。この神経学的(ニューロロジカル)と多様性(ダイバーシティ)の鞄語は、1990年代後半に、神経学的多様性は本質的に病的なものであるとする通説に対抗するものとして現れた。ニューロ・ダイバーシティは、神経学的差異は、ジェンダー、民族性、性的指向や障害と同様に、社会的カテゴリーとして認識され尊重されるべきであると主張する。神経多様性あるいは脳の多様性とも訳される。

  参考:ウィキペディア 

 

本、ブログにも出品した作品を記しておこうと思う。

どなたかの目に留まっていただければ嬉しい。

タイトル:A Goldfishはこちら

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